T さんとの四年ぶりの邂逅

先日、T さんと四年ぶりにお会いできました(といっても、その前にも別人の T さんとも一年半以上ぶりにお会いしたのですが……)。東京駅に集合したのですが、私はあまり詳しく探検したことがないので「丸の内地下北口」がそもそも存在するかわからず、急停車しつづけかけた電車をどうにか後にしてから「丸の内地下中央口と丸の内北口しかないと思うので、今北口にいるんですけど」などと口走っていました。これぞ、今北産業というやつでしょうか……!

PRONTO 丸の内オアゾ店に移って、最初の話題になったのは学術翻訳でした。『船旅』で挑戦した数々の創意工夫を包み隠さず説明し、水面下で同時並行に進んでいるさまざまなプロジェクトをいくつか挙げました(詳しくは、形になり次第またこのブログでご報告することにします)。

一般に、アカデミアでは学術翻訳をはじめとする「高速道路の整備」よりも、ある方の表現を借りれば「しょうもない論文一報」を書くほうがはるかに高い実績として数えられるわけです。その方には「あなた方の行った『船旅』の翻訳はその『しょうもない論文一報』よりも文句なしに高い価値のある仕事ですし、私はこの数学界のアカデミアにおける価値基準は歪なものだと思っています」と仰っていただきましたし、少なくともアカデミアが多かれ少なかれ果たすべきとされる社会的責務としての「社会に成果を還元する」という意味では質の高い訳書を刊行することはオープンアクセスでもなければ「しょうもない」論文を書くことより圧倒的に意味のある活動だと思いますが、(他の三人はともかく)私はまさに数学者としてのアカデミア内のキャリアを捨てたからこそそのような仕事が出来たのだと思います。ある意味で、「頭の良さゲーム」や「“知性” マッチョ大会」とでも言うべき自意識の軛から逃れられていないと、そのような学術的価値の変換された政治的序列を元の価値よりも真実味のある実体だと勘違いしてしまうのでしょう。

昭和までの学術翻訳は現在から見ると驚くほど力強い勢いを持っており、現に『ブルバキ数学原論』や『ランダウ・リフシッツ理論物理学教程』、『スミルノフ高等数学教程』、『ファインマン物理学』といったシリーズものが、英語・仏語・独語・露語・……とさまざまな言語から訳されて出版されていたことは誠に感嘆すべきことでしょう。なぜ現代の我々が当時の力強さを失ったかについて、T さんと話した結果としては「倫理」の忘却が有力な候補として挙がりました。高等教育の大衆化はたしかに悪しき象牙の塔を崩すに至り、旧態依然とした秘儀的な民間伝承 (folklore; Hartshorne 1977) は白日の下に晒され、そして知られることを生来的に好む真実たちはまさにその恩恵を享けているに違いありません。しかし、かつての高等遊民的なエリート主義が担っていた使命を果たす人間が減ってしまっているのも、また一つの側面として確実に存在するでしょう。私たち(≠双数)は、エリート主義とも反知性主義とも袂を分かち、私のような狂ったアマたちとあなたがたのような正気のプロたちが手を取り合い、真に後世に意味を遺す仕事に従事しなければならないでしょう……。真に意義のあった仕事は、時の試練を経て残り続け、新たな時代を担う若者たちによって発掘され、変質し、そしてまた想像もつかぬような尊き化学反応を起こしていく定めにあるのだと、私は心の底から信じています。

17:30 になると追い出されてしまったので、丸の内オアゾのスターバックスに移動することにしました。次に話題になったのは、言語、より正確にはグラマー (grammar) です。

GPT-4 の出現はあまりにも衝撃的な事件であり、この数ヶ月はずっと「お祭り」のような状態が続いていますね。そういえば一つ面白い話があって、すでに大騒ぎになりつつあった数ヶ月前に ChatGPT の話を大学同期に振ったら「何それ?」という反応が返ってきて、なんでしょうか、「平成から令和に移行したことを数ヶ月間も知らなかった人」というべきか、「アメリカの大統領がドナルド・トランプ氏からジョー・バイデン氏に移ったことを数ヶ月間も知らなかった人」というべきか、そういう類の愕然とすべき感情を突きつけられたような面持ちで、落ち着きながら何が起こっているかについての簡単な説明をしました。それからしばらくして授業で ChatGPT が扱われたことで初めて感動している人が出ているのを見て、もちろんそれは(これもまた別のある方の表現を借りれば)「大学教育の暴力的なまでの力強さ」を体現するものでもあると思うのですが……(勘違いしていただきたくないのですが、私はそういった方々に対して侮蔑の念を抱くということはなく、単に強い衝撃を受けるというだけなのです……)。こういったことを考えるたびに次の一節を思い出しますが、これは本当に仰る通りで、私たちはこの二文を深く噛み締めないといけないのだと思います。

法学を学ぶとだんだん一般人から感覚が乖離してくると憂慮している方がいたがそれは違うのではないだろうか。 学問を修めるのはよりよい思考を求めているわけで、学んでも感覚が乖離してこないなら、そんな学問の価値は任意の"数"イプシロンよりも小さい。

乖離 - 白のカピバラの逆極限 S.144-3

話を元に戻しましょう。T さんは「私たちは生まれてからしばらくは完全に GPT-4 として生きていますが、途中のどこかの段階で独立した論理モジュールを獲得し、GPT-4 に象徴される Markov 連鎖的な確率過程でない論理的な判断を下せるようになるはずですが……」旨のことを仰っていたように記憶しています。私は、そもそも数学とは記号列の操作であると考えています。

二千年の歳月をかけて洗練されてきた現代の数学は、ヒトが世界を認識するための抽象的な論理構造を記号列の操作として捉えようとする学問でもあり、かつ「言語」そのものでもあります。物理学から脳科学に至るまで華々しい応用を持ちながらも、それ自身で美しい構造を成す数学の面白さを共有できれば幸いです。講師紹介 - K会

望月新一氏も、数学基礎論に関する事実を持ち出してはいませんが、同じような話をしていらっしゃいますね。

数値的にはとてつもなく膨大な量のデータの処理を必要とする計算になるとはいえ、

「全ての数学」は、とある有限的な計算
に帰着可能であるということになります。第68回NHK紅白歌合戦の感想と、数学(あるいは一生の「認識状態歴」の可能性(!))の有限性 - 新一の「心の一票」

ところが、現に活動している数学者をつぶさに観察してみると、数学基礎論を全く知らない人間たちですら立派な業績を出し続けることが可能であり、現に東大数理は新井先生がご退官されれば基礎論のポストは無くなってしまうのではないかという噂が立っているばかりでしょう。その場合、そうですね、一階述語論理を知らないどころか、たとえば「定義による拡張」という語を一回も耳にしないまま数学者としての一生を終えることが当然可能ですし、むしろそのほうが圧倒的大多数になるでしょう。ここで発生する当然の疑問として、

  1. なぜ公理系を一度も見たことがないのに論理的な数学的推論を行うことができるのか?
  2. なぜ論理的な数学的推論によって得られたはずの結果が「間違っていた」とか「嘘だった」とかいった事態が起こるのか?

というものがあります。私の見解としては、

  1. そもそも行えてなんかいないから。
  2. 「通常の数学」では、論理的な数学的推論をせずに結果を得ることが大半だから。

になります。いわば、数学は(人間が創造するのか発見するのかというプラトニズムに関する議論は一旦措くとして)あくまでも人間によって行われているものであり、人間もまた物理現象に支配された脳の計算や身体性とのアナロジーによって数学的理解を進め、そこで可能な限り精密に「数理的世界」の探究を “物理学的に” 深めていく……そういった営みこそが数学だからだと私は思います。この意味においては数学もまた自然科学に肩を並べることになるでしょうが、別の「記号列の操作」という意味においては数学はまた言語学に肩を並べることにもなるでしょう。

この二面性は、T さんとの会話で出てきた表現を借りれば、理解の「かたさ」と「やわらかさ」に喩えることも可能でしょう。たとえば、中国剰余定理は純粋な可換環論の定理として理解することができ、その証明は比較的容易に記号列の操作として理解することができます。このような記号列の有限回の操作によって(ほとんど)確認できる場合、その理解の様式を「かたい」と形容することは、少なくとも数学者にとっては非常に自然なことでしょう。一方で、中国剰余定理には次のような代数幾何学的解釈があり、このような理解の様式は「やわらかい」と形容したくなるはずです。

4.4.11. Fun aside: The Chinese Remainder Theorem is a geometric fact. The Chinese Remainder Theorem is embedded in what we have done. We will see this in a single example, but you should then figure out the general statement. The Chinese Remainder Theorem says that knowing an integer modulo $60$ is the same as knowing an integer modulo $3$, $4$, and $5$. Here is how to see this in the language of schemes. What is $\operatorname{Spec}{\Z/(60)}$? What are the prime ideals of this ring? Answer: those prime ideals containing $(60)$, i.e., those primes dividing $60$, i.e., $(2)$, $(3)$, and $(5)$. Figure 4.8 is a sketch of $\operatorname{Spec}{\Z/(60)}$. They are all closed points, as these are all maximal ideals, so the topology is the discrete topology. What are the stalks? You can check that they are $\Z/(4)$, $\Z/(3)$, and $\Z/(5)$. The nilpotents “at $(2)$” are indicated by the “fuzz” on that point. (We discussed visualizing nilpotents with “infinitesimal fuzz” in §4.2.) So what are global sections on this scheme? They are sections on this open set $(2)$, this other open set $(3)$, and this third open set $(5)$. In other words, we have a natural isomorphism of rings $$\Z/(60) \stackrel{\sim}{\longrightarrow} \Z/(2 ^ 2) \times \Z/(3) \times \Z/(5).$$

Figure 4.8. A picture of the scheme $\operatorname{Spec}{\Z/(60)}$

THE RISING SEA Foundations of Algebraic Geometry - Ravi Vakil

この「かたさ」と「やわらかさ」のバランスを取ることが、数学の理解を上手にやっていく秘訣であり……ある数理物理学者の言葉を借りれば「良い意味で騙されないといけない」ということです。ここでまた思い出されるのは、次の文章です。

数学という学問は教えられた論理の一部でも理解しそこなって次へいくとそこの傷から本当にわけが分からなくなる。特に大学の授業で訳が分からなくなるのは、小さな傷を傷と思わず、いい加減にしたまま次へ行くからだ。その一方である種の「跳躍」ができるようになる必要がある。この「跳躍」−−物理にしてもあり、しかもなんとも難しいんだけれども、−−これができるようになると、だんだん説明が短くなっていき、そして似ても似つかぬものが同じものに見えてくる。数学や物理をやりすぎた人の話すことが宗教がかってくるのは人が見えてはいけないものが見えてしまうようになるからだと思うのだけれども、そこまでいかなくても大学教養程度までは結構すぐに「何をすればいいのか自然で当たり前に感じる」で片付くようになるよ。

数学と物理 - 白のカピバラの逆極限 S.144-3

私はこの「やわらかさ」を習得するのがめっぽう下手であり、あくまでも「[広い意味での言語]-学者」だと(でしかないと)言えます。数学者も多かれ少なかれ言語学者に似ており、一番「数学語の運用者」として高い技能を持つのはむしろ物理学者である(「数学者:物理学者=言語学者:母語話者」)というのは、T さんに話してもおおむね理解していただけるほど自然な観点だと思います。この「物理学者の母語話者性」は、中高時代の数研の OB 会でもしばしば話題になるところです。

ところで、広義の言語……すなわち「グラマー」の宿るものとは一体何かという問題が、最後の話題として提起されました。私の答えとしては「時間の一次元性により線状性(線条性)が生まれ、線状性によりグラマーが生まれる」というところでしょうか。したがって、(ピアノなどの音階のある楽器によって演奏されるクラシックなどの)音楽や映像、アニメ、漫画、小説、演劇にはすべて「文法」があると私は言えると思います。ただし、絵画にそういった類の文法性があるかというと(私の美術に対する理解不足ゆえかもしれませんが)ないように思われます(一次元の尺度に乗っていないので)。

本当は他にも構造言語学・生成文法・認知言語学の流れや、膠着語と屈折語に存在する「融合の指標」、精神医学と言語学、メタバース、起業の意義(やそれが逆転した(可哀想な!)人々)、……といった多岐にわたる話題があったのですが、私が日記として今のところ書き残しておきたいのはすべて書き終えてしまったので、ここらへんでこの記事を締めくくらせていただくことにしましょう。