なぜ演習は重要なのか

数日前に考えていたことを(ほぼ)そのままメモしておく:

なぜ演習が大事なのかという点については色々と考えることが多かったけど、まず科学やあるいは学問一般という営みはホモ・サピエンスの認知能力に大きな制約を受けているので、学問上の正しさを認めるのはその研究者共同体の認識体系に依存しているが、それを明示的に書き下すのは無理というのがある


つまり、教科書や専門書に書かれてある説明には多くの認識論上の “人工的な” モデルや仮定やあるいはパラダイムが隠れているので、本当は「頭を使う」だけだと絶対にわからないようになっているが、明示的に書き下すのは無理であっても「当てはまるか否か」≒「満点を与えるか否か」は判定できる


研究者共同体の中で演習問題の○×がどう判定されるかを見ることによって理論そのものの理解や背後にあるパラダイムを知ることができる、といういわばウィトゲンシュタイン青色本の冒頭的な転回*1が暗黙のうちになされているが、先天的・準先天的にその共同認識を体得している場合には「才能がある」と


たとえば数学者共同体のパラダイムがある種の先天的なASDの認知形式と極めて親和性が高い場合、ASDの数学者は「頭で考えれば数学はわかる」と述べるが、残念ながらそれは(基礎論的あるいは少なくとも哲学的には)全く必然ではなく誤っており、後天的に数学を習得するためには別の戦略が必要となる


後天的に数学を学習するためには「数学を本当に分かっている人に揉まれて『ネイティブ』になる」とか「数学者が適切と認める演習問題とその解説を徹底的に吸収する」とかがあって、実はこれは背後にあるギャップ( 〔削除〕の言うhidden constraint)を埋めているのだと解釈できるし、そうするべきだと


カピバラ先生の言う「仲間とお茶をする」とか「できるだけ多くの人と話をしてください」とかの意味は今の自分にとってはこう変質しており、そしてこれが狂うとほぼ必然的にに「トンデモになる」≒「研究者共同体の共通認識が飛んだままである」という状態に陥る、という理解をしている 備忘録は以上


追記 このことから「数学上の概念のお気持ちは可能な限り書くべきであるが、形式的な記号列の操作パートとお気持ちパートが純然と分かれるようにすべきである」という思想を抱いている(なぜならお気持ちパート自身も(少なくとも通常の数学では)学問体系の一部または背後にあると言えるから)


追々記 〔……削除……〕このことをROIが不正と言ってもよいし、あるいはregionそのものがundefinedであったと言ってもよい そして仲間たちとのお茶や大学の講義や演習問題は、もしregionそのものがundefinedであればそれを新たに定義する効果があって、独学だけだとこの効果を得るのは極めて難しい、という話のようだ

というわけで,久しぶりにとりとめのない雑文を書いてみようと思う.これを読んで何かを得ようと思わないように(注意書き).


最近思ったのは,たとえば純粋数学や論理学や哲学に感化されずに済んだ人々は,曖昧なものを曖昧なまま受け入れて使いこなすテクニックを発達させているらしいということだった.なるほど,当時は「田舎の優等生」とでも言うべきマインドを身につけていた自分も中学受験は結局そうやって切り抜けた気がするし,世の人々は大学受験もそんな感じで上手くやっているらしい.青臭かったな,いわば早すぎた「B1病」だったな,と今になっても思う(だからこそ青春の,あるいは人生の,最大の思い出になっているのだろうけど).

つまり,そもそも「教科書や専門書に書かれてある説明には多くの認識論上の “人工的な” モデルや仮定やあるいはパラダイムが隠れているので,本当は「頭を使う」だけだと絶対にわからない」という部分は,多感な時期に数学者や論理学者や哲学者といった少し風変わりな人間たちに出くわしてしまったりしない限り,普通は意識したりいわんやかつての自分のように苦しめられたりすることなどなく,優秀な人間であれば「結果が最大化されるような解像度で理解を進める」という方略を採り,そうでない人間であれば単に落ちこぼれていくだけのことのようだ.

現に,自分が抱いた疑問は,優秀な人間にはたまに理解されないことがあるが,いわば「バカ枠」の人間に話してみると単に伝わるどころか,筋の良い推測を出してくれることが少なくない.ただ,優秀な人間にも適切に説明していくと疑問の意図をよくわかってくれるので,頭の良さが因子ではないなぁと直観的には感じている.ずっと臨床をやっている方々のほうが「それは考えすぎて沼にハマっている」「そんなことよりもまずこちらを覚えよ」と言ってきて,たしかに本質に近いことをうまく言い表してくる(っぽい)し周りもそんな感じだから,自分がいつまでも大人になれない人間のような気がしてくる(だからどうというわけでもないな,と思えるほどに歳を取ったようだが).

「回内・回外」とか「交感神経・副交感神経」とかが記憶に新しいけど,医学にはたぶん2つの混乱を招く側面があって,それは①自然選択によって構造と機能がほぼ一致すると思えるほどに関連するので,用語を構造で定義しても機能で定義してもあまり変わらないし自由に濫用できるという生物学的な側面(もちろんこれはチャーマーズ(や永井均)の一次内包と二次内包にも関連する)と,②日常生活の身体的な感覚に即してもいなければならないので,用語法が恣意性に溢れそうになってしまうという実学的な側面っぽい.結局「回内・回外」は,本当は(数学的・物理学的な観点から言えば)どっちを「内」と名付けてどっちを「外」と名付けるかなんて全然決まらないと思うんだけど,いざ終わってみると②が重視されつつ歴史的な経緯を踏まえて恣意的に定義されているという理解になった.俄かに,人間の文化的な営みって共時態だけじゃダメなんだなぁ,という感想が生えてくる.

つまり,物理学者が数学者でもわかるような医学書を書いた方が良いということですね(?).

でもその点で言うと,『病みえ』は少なくとも神経の分類に関する説明を読んだときに感動のあまり涙が出そうになったので,相も変わらず『病みえ』を信仰しつづけるのが良いという話なのかもしれない.ランダウ=リフシッツと同じ感じで(?).でもブルバキみたいな医学書は読んだら留年しそうだからやめておきたいな.


理学では「研究」と「勉強」は違うと再三再四言われるし,医学では「基礎」と「臨床」は違うと毎度毎度言われる.理学では「勉強ができても研究ができるとは限らない」「早熟な天才を持て囃すな」「学歴は研究業績の多寡にあまり関係しない」という箴言が多い(多くてもはや飽きた)ので,医学では「基礎は頭が良い人が,臨床は頭が良くない人がやるべきだ」と考える人が少なくない(むしろ多い)のには驚いた.昨年の講義で「自分は頭はそこまで良くないかもしれないが,かといって鉄門の方々が研究で良い業績を上げるかというと,どうやらそうでもないのが不思議だ」という話を聞いたが,自分にとってはそれは極めて当然のことだと感じた(そのことに対して特に価値判断は持っていない,世の中には適材適所というものがあるので).研究は(上から降ってくる作業を延々とやり続けることもできるが)「本当は「頭を使う」だけだと絶対にわからない」部分に呪われてしまった人々の(たまに〜しばしば成功する)壮大な集団の祈りであって,ペーパーテストでしっかりと点が取れる能力とは(もちろん第一近似としては大きな影響を有するが)あまり完璧な相性を示すとは言い難い側面が否定しきれないだろう.

呪いが愚直さを生み,愚直さが祈りを業績に変えることがある,という呪術が伝統的に成功を収めてきただけの話のようにしか見えない.


「自分のやっていた研究が先を越された!」と嘆くのはたしかにポストが危うくなったり出世が遠ざかったりするという点では共感できるが,たまに「自分がやろうとしていたことがすでにやられていた!」と嘆き悲しむ人がいるのには全く共感できない(「やっぱりそう思うよね!?」と安心してしまうので,最近はMartin Haspelmathに強い親近感を覚えている).自分は,本心を言えば自分の呪いと向き合う(あわよくば同族の他者の呪いを解く)ためにここまで来てしまったと思っているので,熱烈な競争を繰り広げられる人はとても羨ましいと感じる.仕方なく研究に励まなければならないディレッタントってきっとこんな感じなんだろうけど,でも医学部は閉鎖的だから少し救われる部分がある.つまり,どんなに自分と同族の人間が見つけづらくても,運命共同体としては同質な一員になれているからだ.居心地は特段良いものとは言えないけど,それでもやっと「普通の仲間」になれたという点では感謝することも多くなった.

要は,歳を取って世を捨てられるようになった,ということのようだ.


ところで,この呪いのことを「意欲」と呼ぶ人もいるらしく,自分は「意欲のある人間だ」と(おそらく肯定的に)評されることがあるが,本当は自分も小学生の時のようにひたすらパターンマッチングを繰り返して作問者の意図に沿っている確率が最大となる選択肢を選びまくって社会的な点数をひたすら稼いでいくマシーンに戻りたいと思う日がある(しかない).そして,最近は「ひたすらQBで演習を積みながら疑問点を『病みえ』でふわっと理解する」という戦略が性に合っていると思えてきたので,少しずつまた普通の人間に戻れていくのかもしれない.そんなこんなでカピバラ先生のご明察を久しぶりに読み返してみると「うわ〜これは本当に正しすぎるなぁ」としか思えなくなっている:

開成卒の医学部の人と理由付けについて話をした。法学とは違い、一つの科学の立場に立ってはいるものの医学の理由付けは物理学のそれとは違う。理由付けで戻っていくところが止まる。だからそれに近づくことが理由付け。ただ、大抵はきちんと戻れば戻る場所が多いので戻ることは実学としてはあまり役に立たない。また多すぎるので経験則を導入する。症例ごとに経験則が一つあってそれを憶えていく作業になる。意味のないこと(論理的につながりのないことの意)がよくおぼわるよ。

現状で最善と考えられるものは真実だとしておく。(石炭酸による消毒・尿道結石にカルシウムを控えるといった)後から誤りと気が付くこともあるが気にしない。この辺は逆。


医学は自然科学ではないというのはよく言われるがでは何かというのに「ニューラルネットワークである」というのはよい答えだと思った。


結局すごく簡単な話で,生活水準を上げると引き返せなくなる,といういつものやつと全く同じだと思う.理解の解像度を数学者や哲学者のレベルにまで上げていってしまうと,粗い解像度のまま概念を上手に操作できることが困難になって,どことなくぎこちなさを抱える「後遺症」が残ったままになるのだと感じている.もう二度と戻れなくなったことを悟った人間が次にやることは自らの境遇を正当化することだけど,その次に来るのは正当化という態度そのものを忘却または放棄してしまうことのようだ.

テスト理論の成果を言い訳に,MCQ(多肢選択式問題)が一番偉いという外的規範を内面化して世界の合理性を信じ続けようとしたまま,それでもひとたび「神の姿」を目にしてしまった人間としてこれまでもこれからも生きていき,そして自分と同じ可哀想な人間たち{のために/とともに}祈りを続けていくのだろう,と気付きながらも絶えることのない揺蕩いの中で決心したのがもう数年前の昔話になっていたことになぜか少し安堵している自分が初めて静かに誇らしく見えた気がした.

*1:What is the meaning of a word? Let us attack this question by asking, first, what is an explanation of the meaning of a word; what does the explanation of a word look like? The way this question helps us is analogous to the way the question “how do we measure a length?” helps us to understand the problem, “what is length?” Asking first, “What's an explanation of meaning?” has two advantages. You in a sense bring the question “what is meaning?” down to earth. For, surely, to understand the meaning of “meaning” you ought also to understand the meaning of “explanation of meaning”. Roughly: “let's ask what the explanation of meaning is, for whatever that explains will be the meaning.” Studying the grammar of the expression “explanation of meaning” will teach you something about the grammar of the word “meaning” and will cure you of the temptation to look about you for something which you might call the “meaning”. —Blue Book - The Ludwig Wittgenstein Project